昭和43年9月1日 朝の御理解
X御理解第8節「子供の中に*の子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。無信心者ほど、神はかわいい。信心しておかげをうけてくれよ。」
信心しておかげを受けてくれよ。これは、子供の中に*の子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。無信心ものほど、神はかわいいという。神様から、かわいがってもらう。神様に不憫をかけてもらう。そんなら、無信心者の方がよいと言うように事を言う人がありますよね。それは、まちがいである。神様に次には信心しておかげを受けてくれよとおっしゃるのですから、信心しておかげを受けると言うことが、神様の喜び、神様のお心に叶うことである。ここでもう一つの解釈がありますがね。我が*の子であるという自覚、私の様なつまらんものがあろうか。思うてみりゃあ、自分はもう本当に心の不具者だ。心の片端者だ。心の目は見えないし、心の耳は聞こえない。自分ほど、*の子は、あるまい。神様も自分の様な者をお取り立てくださるということは、大変なことであろうと自分自身をぎりぎり見極めて自分と言うものの無力さ加減、又は自分と言うものの真実、自分こそ、屑の子であろうとこう自分から、そういう自覚に立つ。ですから、ここでは、そういう自覚に立った、氏子の上に神様のかわいいという愛の手が差しのべられると言う解釈もあります。確かにこれは、そうだと思いますよね。私が例えば、本当に私のようなつまらん人間はあるまいとこれは、よその例で親鸞上人様のことで申しますとね。だんだん、人からは生仏様の様に言われるようになられてでもなおかつ日本一の大悪人だと自分を自覚しておられる。自分の様な*凡な者はおるまい。自分の様な悪人は又とあるまい、と自分と言うものをぎりぎり見極めておられる。それは、年を取られれば、取られるほど、人から崇められるようになられれば、崇められるほど御自身としてはそう自覚に立っておられた、というわけなんです。金光様の御信心でもそうです。教祖ま様もやっぱりそうですね。無学の百姓で何にも分からない。私というておられた自分の事を無学の百姓である。何にも分からない自分である。いつ神様からお暇が出るかわからんと言うように言うておられる。そこには、行き神としてのお取り立てがあり、金光大神としてのお取り立てを受けておられる。私でもそうである。もう本当にここにお引き寄せ頂かれる全ての者、御信者さんよりと自分と言うものを見比べて見るときにもう本当に見落ちのするのが私である。どんなにひいき目に見えても私は誰よりも劣っておると思う。これは、うそじゃないですよ。本当ですよ。これは、屑の子の自覚がというものがだんだん出けてくるようになれば、なるほど、しかし私はおかげを受けておる。神様の愛の手はさしのべられておる。だから、今日は、そういう解釈でもなからなければよく、*談の様に言われる。その神様からかわいがられるためには自分は屑の子にならにゃあいかん。無信心にならにゃあいかん。無信心者ほど、神はかわいいとおっしゃるからもうお参りはせんがいい。出来るだけ、せんほうが神様からかわいがられると行ったような言い方をする人もある。だから、それでも、なら自分の屑の子の自覚というそれでもない。今日はここんところをですね。無信心ものほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ、とおっしゃってある。信心しておかげを受ける氏子。信心しておかげを受ける氏子になりたい、と言うことである。言うならば、神様に叶う私になりたいというのである。神様に気にいられたいというのである。会心と言う言葉がありますね。会と言うのは、何々会の会ですね。信愛会の会心は心、会心と言うことの解釈は気に入る。心に叶うと言うことだそうです。会心の笑みを漏らすと言うようなことを申しましょう。自分の作ったものが、自分の心から気にいる。そういうときにいわゆる会心の笑みをもらす。はあ、自分ながら、惚れ惚れするように立派に出けた、というような場合にですね。よく芸術なんかが、自分の作品に対して見とれるように出来たときに使う言葉ですね。会心の作、会心と言う意味は、気に入るということ、自分の気に入る、又、心に叶うと言うこと、天地の親神様が教祖様を発見され、教祖様を日本のいわば、天照大み神様、日本の氏子でおありになった、いわば、教祖様に対して天地の親神様が貰いをかけておられるですね。神様と天照大み神様の間にかわされておるところのいわば、神語りを頂きますとあの氏子を自分にくれよ、と言うておられる。天地の親神様は、一応は上げましょう」と言うて、おられるけれども、やっぱり天照大み神様は考えておられるやろうと申しました。なれど、やっぱりあの氏子はやれませぬ」と言うておられます。天照大み神様もやっぱり教祖の神様をとっておきの氏子として思うておられる。そこへ天地の親神様から、御所望があった。「あの氏子はあげられませぬ」あれには、息子がおりますから、あの息子を変わりにあげましょう」と言うておられる。ところが、天地の親神様の強いてのお頼みがあった。「そう言わずにあの氏子をどうでも自分にくだされ」「そういわれるならば、そう御*理を言われるなら、仕方がないからあげましょう」と言う様なことを言うておられる。そこでは初めて日本の国籍から言わば、世界の取り次ぎ者としての始まりがそこから、始まった。日本の小さい神様じゃあなくて、もう宇宙全体の世界全体のいわば、取り次ぎ者。日本人だけ助かるのじゃあない。世界中の氏子が助かられるところの氏子として神様が目をつけられたと言う事である。金光大神を読んでおられ、そこんところを大変何回読んでも本当に素晴らしい所だと思うんですね。神様と神様の神がたりがあると言うようにです。天地の親神様が教祖様に目をつけられた。そして、教祖様がだんだんと自分の思うようにお育ちになられた。ところが天地の親神様の思われる以上にどんどんお育ちになっていく訳ですね。もうおまえの様な氏子はかつて見たことがない。もうほとほとと感心しておられますね。これからは、金光大神の言うことならば、何でも聞いてやろう。いわゆる、まさかの時には天地金乃神と言うに及ばん。金光大神助けてくれといえば、助けてやるとおっしゃるように教祖様、金光様がいわば、お育ちになられたわけなんですね。いわゆる、天地の親神様ともそういうときこそ、やは、会心の笑みをおもらしになったことであろうとこう私は思いますね。そこで、私どももです。神様からあの氏子がおってくれ。あの氏子がおってくれてと神様が喜んでくださる。親先生からあの信者がおってくれ、教会が立ち行くあの信者がおってくれて教会が立ち行く。あの信者がおってくれるから、私も安心。例えば、言われる、思われる様な信者にお取り立てを頂きたいと言う願いを持てというのである。信心しておかげを受けてくれよというのは、そういうおかげを受けてくれよである。神の願いにもなる。親先生の頼りにもなる氏子にお取り立てくだされと言う願い、または親先生もそういう氏子になっていく事を喜んでくださり、楽しんでくださる。そこにいわゆる会心ね、心が会うと言うのである。それは、私どもは完璧を目指しても完璧と言うことは出来ないでしょう。神様のお心に叶う私にならしてくだされ。そう願う神様も又、それを願っておられる。そこに会心、心と心が会うのである。教会の中心にもなりたい。教会の言わば、柱にもなりたい。それほどの力を頂きたい。昨日ですね。久富さんを先頭に総代さんから、信者さん他6名、いわゆる7名の方が信心の研修会に甘木に昨日から今日午後3時までございました。それに参加しております。みんな時間励行で参りますから、ここを12時半ごろでました。御祈念させて頂いておる。信心を約3~40分か、検討して、そして心の準備を作って例えば、おかげを頂いておるとこう自分では思うておってもですね。さあ、いよいよ言葉に出して何か言ってくれ、話をしてくれと言われるとなかなかお話が出来ないもんですよね。ですから、めいめいにそこんところの検討をしあいながら、いろいろ言うならば、これが、合楽の信心の独壇場、こういう信心を自分たちは身につけていきようると例えば、話してもどこで話してもそれを本当とは思われないと言うのが合楽の信心です。もう合楽の者ではなからなければ、分からない。そげんなこつがあるもんかと、例えば、人から、本当と思われないほどにおかげを受けておるという事実がある。先日も秋永先生が松影会に行っていろんなことを発表された。けれども、それをですね。ほーそうですかと言うて聞くもんがおらん。あの人はちょっと大だこばっかり言う人じゃあるというふうにしか聞かん、と言うほどにおかげを受けておるという事実がある。だから、本当に合楽の真髄というかね。合楽の信心の真髄に触れていきよる喜びをですね。人に語っても本当だと思わんのですぐらいに言わば、合楽の信心は現在は、高度です。程度が高いです。金光教の御信心はそんなおかげを頂くことはなかと言う言い方をする。そんなことを私は聞かせて頂いてから、御祈念に入らせて頂きました。そしたら、神様から、私に頂きました事は漢字であの「伊太利」「フランス」と言うでしょう。「伊太利」と言うことを頂くのです。伊はにんべんに***ですから、どのように素晴らしいことを言うてもです。伊は、他と言うこと。他の人たちが本当に認めてくれるためには、太い利ですね。本当に大きなおかげを目の前に見せなければ、みんなは合点せんということ。だから、合楽の信心はこうです。ああですと言うてもです。とても、そげんなこつがあるはずはなかというふうにしか言わん。こういう素晴らしい信心頂いておると言うてもそんなら、そういう素晴らしい信心、そういう素晴らしいおかげと言うものを目の前に見せなければ、人は合点しない。だから、いうならば、合楽の信心の言わば、PR的な事は、話さんが、言わんがええばいと私は申しましたことでした。分からんけれども、求めてくるなら、嘘を思うてよいから、真実を語りなさい。合楽、どうぞ話してくださいと言われるときには後から、あなた方がおかげを受けたあかつきにです。あの人が何時かあがな事を言いよったが、やっぱりあの人の言うことが本当じゃったと言うことを語りなさい。だから、今日今分かってもらおうと思いなさんなと言うて私は昨日皆さんを送り出しました。皆さんがです。本当に合楽の信心を身につけてそしてそれを皆さんがおかげの上に太く大きく現わして初めて皆さんが合点するのですよ。底で今日私は屑の子ということにですね。子供の中に屑の子があれば、それがそれがかわいいのが親の心じゃとおっしゃる。それを今まで説いて来た。いわば、二つの解釈を先にいたしました。そして、御理解させて頂くところ、ここんところを頂くと言うのは、「信心しておかげを受けてくれよ」神様は無信心ものほどとおっしゃるけれども、それなら、ひとつ無信心になろうかと毎日参りよったばってん。一週間にいっぺんになろうかと。そうすると、神様からかわいがってもらえるじゃろうと言うような解釈をせずに又は、自分自身が我が屑の子であるという自覚に立って親鸞上人の様な生き方、こういう解釈もある。それもありがたいけれども、今日はそうではない。神はかわいいとおっしゃる。その屑の子から神様が会心の笑みをもらいなさるような氏子以上に育ったあのように育つとは思わなかった。本当に良い信者にお取り立てを頂いた。よいおかげを受けてくれたとそこにかわいいじゃなくてから、神様のお喜びがある。いわゆる会心のお喜びがある。神様の思いと私どもの願いと言うものが、会う。心と心が合う。会心、そこに神様は会心の笑みをおもらしになるだろうとこういうわけである。ですから、皆さんの本当に私の様なつまらんものというところの願いとしてはです。我が屑の子であるという自覚に立ってです。私のようなつまらんものではございますけれども、どうぞ神様あなたのお心に叶う信者氏子にお取り立てくだされ、お取り立てくだされという願いが必要なのです。唯自分の子とを病気を治してくだされ。これをこうしてくだされという願いから一歩前進してです。神様のお心に叶う氏子にお取り立てをくだされという願いをもたなければいけないと言うこと、と最後に言うてあるです。信心しておかげを受けてくれよ、とおっしゃっておられる。屑の子からいわば、脱皮していけというのである。天地の親神様から天照大み神様にもらいがかかられた。たとえて言うなら、秋永先生は本当はお母さんが三井教会の信者であった。長年の三井教会の信者であり、言うならば、当然三井教会の信者として籍をおくのが、本当である。けれども、神様は秋永先生をどうでも合楽にはおってもらわなならん人だから、どうぞ合楽にくだされと言うてもらわれなさった様な感じがする。久保山先生でもやっぱりそうであった。一番初めは、善導寺の教会にお参りになったが御神像の始まりであった。それをやっぱり合楽ににおってもらわなければできないと言うので合楽からもらいがかけられたようなものである。久富先生でもやっぱりそうであった。一番初めに私が北の教会にお導きしたのが始まりで合った。この人なんかもう一番初めから貰いがかかっておった。これは北の先生と私が大変親密にしておるものですから、北の先生、この人だけは私が育てますけん。私にくださいというて、もう一番初めから、私は言うておるのです。私がまだ教会を持たない前に言うならば、もらいがかけられておる。末永さんでもそうである。自分は教会の息子でもあるから、自分の所で修業してもよい。自分の親教会と言えば、福岡のああいう大教会で修業するか、または、親教会の福岡教会で修業するのが当たり前。けれども、どうでも末永を合楽にほしいと言うてもらいがかけられておる。私は妙なものだと思う。だから、めいめいがそういう自覚に立たなきゃいけんね。お互いがそういう自覚に立ってです。結局自分が信心しておかげを受けて暮れ江とおっしゃる。本当に信心を頂いておかげを受けなければ、ならんのである。いわゆる神様が会心の笑みをもらしてくださるような信者氏子にお取り立てを頂き願わなければならない。昨日の朝の御理解の中に合楽の信者の層というのは三つに分けることが出来る。いわゆるばく進型、腰掛型、日和見型、本当にこの人はよい信心を頂いておる、よい信者になるに違いないと思う人がちゃんと腰掛けておってごらんなさい。神様がどう思いなさるかといつでもこれで済んだとは思いませんと言う願いとしてはもう限りない。こういうおかげを頂きたいだけじゃなくてもう限りないおかげを頂きたいと言う願い、だから、限りなくお役に立つ氏子になりたいという願いでなからにゃあいかん。もうこれぐらい頂きゃあもう金の一千万*も持っときゃあ、もう神様それ以上の欲は申しません、なんてこういうことに腰掛けておるならば、もうこげんなつまらんことはなかです。腰掛ちゃあつまらん。目より見よ、なおつまらん。どうでも、一つ私は神様の前にはいわゆるばく進型もう限りなく進めて行くというのである。昨日善導寺の久保山さんが出てみえてから、ここで「先生もう何時も申しますけれども、私はどこをどういうふうに改まったらいいでしょうか。どういう信心さして頂いたら、いいだろうか言うてください。教えてくださいというわけです。だから、それは久保山さんありますよって。私からあんたを見るとまだ、たくさんありますよ。ああもあればいい。こうもあってくれるといいとたくさんありますけれども、それは私は言わん。なぜにしてあんたがそういう意欲を持っておる限りは言わん。だから、あなたは何か機会があると機会を手がかりとして足がかりとして必ず、あの信心が前進しておることを知っておるから、私はあなたに言わんでいいと私は言うた。ところが、腰掛けておる人には私は何時もたたくようにここでは、肩をたたく様にさあもういい加減に立ち上がらんか。もういい加減に立ち上がらんかと私は言うです。けれども、いつも前進しておる。何時も本当なことになっていこうとそれをいっぺんにいうたからと言うて実際に出来るもんじゃあないです。これは、久保山さん私の信心とあんたの信心はそこがよく似ております。私もこれでよいといっちょ思うとらん。何かそこに手がかりが出来るとそこから、私は必ず、前進しておる。信心の型の上においてもそうである。信心の形の上においても変わっておる。内容はもちろん変わって行く。おそらく、私が息のある限りこの思い願いと言うのは捨てないだろう。久保山さんあなたも捨てられないだろう。なぜならば、私はあんたにいろいろ言うことはいらんと。もうこれ位のおかげ頂きゃあよかと思うておる人にはいうのである。それは肩をたたくようにもうええ加減には立ち上がらんかなと言うのである。ところがそげんな人はぼけーんとごとしとる。結局神様から肩をたたいてもらわなければ、仕方がないと言うような感じの人がたくさんです。ですから、私どもの願いがね、どこまでも神様の心と会うところの会心と言うこと、それには、私の様な者ではございますけれども、どうぞ信心のお導きお取り立てをくだされとあなたの心に叶う信者氏子にお取り立てくだされという願い。そういう願いを持たなければならない。そういう願いを持つところに例えば、そこには言っていない久保山さんではないが、そこまで行ってないにしてもです。神様が安心して見ておいでられるわけなんです。この氏子は機会があれば、チャンスがあれば、必ず、そのチャンスを生かして前進すると言うことを見ておられるから安心なんです。そして、昨日のそれではないですけれども、伊太利である。人が見てもなるほど素晴らしいおかげだなあと思われるようなおかげを頂かなければ、という大きなおかげを頂かなければ、でけんのですよ。そういう太いおかげを頂くためにはいつまでもお互いが無信者、いわゆる屑の子で会っては行けませんと言うのである。唯それは、かわいいと言うのはここでは不憫をかけておられるのである。不憫をはあ、不憫なものじゃかわいそうなものじゃ、神様の心は何時も泣きござる。そういう意味で神様からかわいいと言われたんじゃあいけんのだと言うわけですね。今日のところは今日の御理解を頂くと、ですから、あの氏子は本当に思うておったいじょうに育つ。そこんところをです。私どもは願いとしての信心願いとしてのおかげを受けていかなければならんと思うのでございます。神様に気にいられる心、神様の言うならば、傑作と神様自身の会心の笑みを漏らされるような氏子にお取り立て頂くことを願いとして信心を進めていこう。自分の子の中に屑の子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。無信心ものほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよという。御理解を今日ただ今申しました様な意味合いで聞いて頂きましたですね。どうぞ。